三百余年続く漁業家の歴史

鰤を大漁に獲る網改良に日本で初めて成功したのは明治期、
代々水産業、水産加工業を営む宮崎県延岡市の日高家です。
改良に改良を重ねた網は、「日高式大謀網」と呼ばれ、現在の定置網の原型となっています。
明治期には、フランチャイズ形式で日本全国各地だけではなく朝鮮半島にまで漁場を持ち、網と技術を広げていきました。
その後日高家当主はブリ大尽と呼ばれ、延岡市赤水町に建てられた住宅は「ぶり御殿」と呼ばれ、現在文化財に指定されています。

鰤御殿 (2)

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「ブリ大尽」について

"ブリ大尽"の呼び名で知られていた日高亀市は、現延岡市赤水の網元の家に生まれ育つ。
当時の沖合には1月から3月にかけて、毎日のようにブリの大群が押し寄せていた。
だが浜の漁民たちは、従来の1本釣り漁法に頼るしかないのが現状であった。
何とかこれをまとめて獲りたいというのが、亀市の父・嘉右衛門のかねてからの夢であった。

亀市はその意志を継ぎ、新しい漁法の考案に没頭する。1875(明治8)年、「ブリ沖廻し刺網」を完成させる。
翌年2月には一綱3千匹の漁獲を上げ、また翌月には7日間で5万匹を水揚げする。

しかし周囲がこの漁法を取り入れ始めたため、ブリの回遊量が減り、さらに改良した網改良した網作りが必要になって来た。
斬新な網をつくるには専門的知識が必要だと考えた亀市は長男・栄三郎を東京水産伝習所(現・東京海洋大学)へ入学させる。

※栄三郎は後に、貴族院議員となり政界人、文化人と交流をもった。

「定置網業の新時代」

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91(同24)年、彼は東京水産伝習所を卒業した長男・栄三郎と共に、「大敷網」の研究に取り組み、失敗を重ねた末の翌年2月29日、ついに一網3千匹の漁獲に成功する。

こうしてブリ定置網漁業の新時代が幕を明ける。

1910(同43)年彼はさらに「大謀網」を考案、漁期を通し18万2千匹のブリを水揚げする。

亀市はこの成功によってばく大な利益を手にし、ブリ大尽として全国にその名を知られるようになる。
当時赤水に建てられた屋敷は「ブリ御殿」として現在も受け継がれている。

また、この大謀網は前年ロンドンで開かれた、日英博覧会にも出品され、見事1等賞の栄に輝く。

日高亀市はこうして築いた財産を、地域社会に還元し72歳で亡くなる。
ブリ漁にかけたその生涯を記念し、赤水湾を見下ろす台地に、彼の石像が建てられている。